1707年10月28日14時前

宝永地震

M8.9 / 南海トラフ

名前 宝永地震

日時 1707年10月28日14時前

震源 南海トラフ

緯度 北緯33.2度

経度 東経135.9度

規模 M8.9

深さ 20km

出典 [1] [2]

古文書から推定された宝永地震の震度分布。宇佐美(2010)(2013)による。

概要

  • 南海トラフで発生したM8〜9クラスの巨大地震。死者約2万人、潰家約6万棟[3]
  • 東海・近畿・四国で家屋倒壊が多く、甲信・北陸・中国・九州でも被害[3]
  • 津波は房総から九州までの太平洋岸や瀬戸内海・伊豆諸島を襲い、甚大な被害[3]

詳細

震害・浪害ともにきわめて大きかった。潰家は東海、近畿中部・南部、四国のほか、信濃・甲斐でも多く、北陸・山陽・山陰・九州でも生じた。津波は房総から九州に至る太平洋岸を襲ったほか、瀬戸内海に入り、また八丈島にも上った。その被害は高知県沿岸できわめて大きく、紀伊半島〜伊豆西岸で大きかった。太平洋岸の地方では、震害と浪害がはっきり区別できない史料が少なくない。山梨県下で潰約1600。長野県下では、潰家松代113〔80〕、松本108〔178〕、諏訪郡240余、飯田114〔50余、領内で約500〕。伊豆下田(推定波高5〜6m)は912軒のうち、流失全潰857、死者11。東海地方では、掛川宿潰326、死者5、掛川領民家潰流失1100余、死者4。志太郡内10か村2600余軒のうち1400余軒潰れた。浜松領潰955、死者1。荒井町(推定波高3m)で850軒中潰107、流失241、死17。田原で潰1321。紀伊半島東岸では推定波高5〜10m。〈南勢町・南島町〉で死者271、錦〈紀勢町〉25。長島死者500余。新鹿〈熊野市〉死者24、尾鷲で流失家屋610、流死530〔1千余〕。紀伊半島西岸では、推定波高4〜6m、広で850軒中、150軒崩れ、700軒流失、死者292、湯浅組750余戸のうち流失367、死者65〔41〕、田辺倒壊274、流失269、流死24〔37〕、周参見死者134、広川192。近畿地方内陸部でも震害は大きく、潰家は大和郡山で468、柳本690、奈良65。大坂では津波による橋や船の被害も多かった。潰家500余〜約1800〔約8千〜1万6千世帯〕、死者500余〔打たれ死3600〜7千、水死1万2千〕。落橋30〜50。徳島県下では波高5〜7m、牟岐で死者110余、浅川で140余。高知県沿岸では推定波高5〜8〔25〕m、潰家約5千、流失家屋約1万2千、死者行方不明併せて約2800。種崎では一木一草も残らず死者700余、宇佐で死者400、須崎で死者300、久礼で死者100余。瀬戸内海では、高松領内で潰家約950、円亀領内で413、福山(鞆を含む)60等。山陰では杵築〈大社町〉の潰家130が目立つが、ここは、1946年南海地震のときも被害が目立った。九州佐伯で潰約100、推定津波波高約3m、流失約400、死者22、日向天領で潰家440、死者1。道後温泉は145日止まり、湯の峯・山地・龍神・瀬戸・鉛山の湯が止まった。室戸岬は1.5m隆起し、津呂・室津では大型船の入港が不可能になった。高知市の西隣では約20平方キロメートルが最大2m沈下、船で往来したという。串本1.2m、御前崎1〜2m隆起。この地震の激震地域、津波来襲地域は、安政元年11月4日東海地震と、11月5日南海地震をあわせたものによく似ている。南海トラフ内側に、二つの巨大地震がほとんど同時に起こったのものとみられる。[3]

周辺で起きた過去の地震

参考文献

1.宇佐美龍夫・石井寿・今村隆正・武村雅之・松浦律子(2013):日本被害地震総覧599-2012,東京大学出版会,82-83.

2.宇佐美龍夫(2010):わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図(改訂版),日本電気協会.

3.茅野一郎・宇津徳治(2001):日本の主な地震の表,地震の事典,2,朝倉書店,574-637.

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